【家で映画 vol.5】『カクテル』(1988/アメリカ)

『カクテル』(1988/アメリカ)

トム・クルーズの映画は何が好きかと聞かれたら、私は『カクテル』と答えます。
物語は主人公が軍を除隊するところから始まる。学歴はないけど億万長者になる夢だけを持ち、ニューヨークへ向かう。簡単なあらすじですが「野心を持って働きました、恋もしました、挫折もしました、悲しい別れもありました、でも成功しました、ありがとう!」という超ドストレートな話です。

まずBGMが陽気で楽しい。トム・クルーズバーテンダーがカッコいい。カクテルの作り方もカッコいい。若さゆえ、主人公は変なことをたくさんするんですが、カッコよさだけで全て許せてしまう圧倒的なパワーを感じることができます。
その年の最低作品を選ぶゴールデンラズベリー賞に作品賞と脚本賞で選ばれていて、ただのイケメン若手俳優が楽しいだけの映画と評価されたようです。トム・クルーズ自身もあまりこの映画の話をしたくないらしい。

ここからは妄想ですが、もし1988年に日本で映画化したら「主演:郷ひろみ BGM:TUBE」でどうでしょうか。TUBEの曲にバックに郷ひろみバーテンダーをやれば日本版でリメイク完了ですね。

久しくバーには行っていないですし、劇中にはかなり密なホールも出てきます。1980年代の古き良き時代を懐かしむ楽しい映画ではないでしょうか。とにかく楽しくてカッコいい映画です。

(面白さ:★★★★★★★★☆☆)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/4380/

【家で映画 vol.4】『みなさん、さようなら』(2003/カナダ,フランス)

『みなさん、さようなら』(2003/カナダ,フランス)

 

センスがあるのかないか分からない微妙な邦題なのだが、原題は『蛮族の侵入』である。ちなみに蛮族とは父親にとっての息子を意味している。劇中では、仲の悪い親子が末期がんの父に対して向き合う姿が淡々かつコミカルに描かれる。重すぎず軽すぎないバランスが素晴らしい。

 

劇中に語られますが、末期がんの父親は《好色の社会主義者》で、息子は《野心的な資本主義者》である。この二つは相対する主義であり、父親と息子の仲は悪い。「世界一の病院を手配した」という息子に対し、父親は「贅沢な病院は主義に合わない」として、設備の古い病院から動くことを拒みます。匙を投げようとする息子に対し、婚約者と母親は父親を助けるように説得します。成功したビジネスマンでもあり、資本主義者の息子は、財力を使って父親の望みを叶えていきます。

 

息子を拒んでいた父親も次第に心を開きはじめる。息子の施しによって機嫌が良くなったんですが、それはすべて、資本主義的解決によるものだ。息子は非合法なことに足を突っ込みながらも、父親を望みを叶えるために奮闘します。そこでトラブルもあるんだけど、やり手のビジネスマンらしくスマートに解決していく。

まるで資本主義が社会主義より格上だと言わんばかりで、社会主義者の父親があわれにも見えちゃいますね。

でも最後に父親が「お前のような息子を作れ」と息子にいうので、最後には親子の間の溝が少しは埋まったのかなと思いました。

 

(採点:★★★★★★★★★☆)

 

https://eiga.com/movie/52179/

『暇と退屈の倫理学』(國分 功一郎)

『暇と退屈の倫理学』(國分 功一郎)
 
「なんとなく退屈だと」という心の声は誰しも聞いたことがあるだろう。『暇と退屈の倫理学』によると、この心の声は人間にとって耐え難いことであると書かれている。
 
 
▼消費と浪費は異なる
 
現代において「消費」とはモノを受け取るというよりも「観念を消費すること」だそうです。ここでいう観念とは「生きがい」や「忙しさ」であり、私たちは労働においても余暇においてもその観念を消費しているのだという。※ちなみに浪費は必要以上にモノを受け取る事、つまり贅沢である。
 
言いかえれば、広告は「個性的であること」を提示していて、私たちは個性的であろうとする。産業は次々に新しい観念をサービスとして提供し、私たちはそれを消費している。そうなってくると余暇は労働に対する休息の時間ではなくなっている。つまり「俺は仕事に縛られていない」という観念を消費するための時間になってしまっているのだ。労働がある限り、余暇は存在し、そのたびに観念を消費していくらしい。
 
 
▼産業サービスを拒否すると退屈になる
 
産業の提供する観念消費サービスを拒否した場合、どうなってしまうのか。冒頭に戻りますが「なんとなく退屈だと」という心の声が聞こえてきてしまうのだ。現代の私たちは「なんとなく退屈だ」という心の声を聞きたくない。何をしてもいいのに、何もすることがないという耐え難い状態になってしまうのだという。
 
退屈状態から逃れるために「日々の労働の奴隷」になる人もいる。つまり、常に忙しい状態に自分を置いておき「なんとなく退屈だ」という心の声を聞かないようにする。奴隷という言葉にはネガティブな響きがあるが、「なんとなく退屈だ」という心の声を聞くよりはずっとマシらしいのです。
 
 
ハイデガーの唱える退屈の解決法は「決断」
 
本書にはハイデガーの考える退屈に対する結論と提案をまとめてみる。(p294)
 
(1) 人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだからだ。
(2) 人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。
 
決断することで退屈から逃れられるとハイデガーは述べているらしい。ちなみに本書では「決断」について、「ぐずぐずいってないてシャキっとしなさい」という喝を入れるようなことだと超簡単に書かれている。ところが筆者はキルケゴールの「決断の瞬間は一つの狂気」という言葉を引き合いに出して、ハイデガーの論に異を唱えている。決断とは周囲から隔絶した状況に自分の身をおいて何を決めてやることだ。そんな狂気の行動をハイデガーが退屈論の結論に持ってくるのは変だと言っているのだ。
 
ちょっとよく分からないので、國分氏本人に「決断」とは具体的に何かと聞いてみたことがある。「日常ではなかなか決断することはない」「既定のプログラムに乗った行動じゃないけど、一度決めたら撤回せずにやること」だという回答が返ってきた。日常生活で決断することはないので、分かりやすい例が出せないということと、時間の都合により、ここで質問は終わった。
 
全然腑に落ちない私はそれから考えた。そして結論がでた。おそらく「決断」とはいわゆるバットマン的な行為ではないだろうか。バットマンこと、ブルース・ウェインゴッサムシティを代表する大企業ウェイン・エンタープライズ筆頭株主である。普通に生活していればセレブなわけだが、彼は犯罪撲滅という目的がある。夜になればコウモリ男のコスプレをして、秘密基地にある武装した車やバイクに乗って犯罪者を私刑に処すわけである。
 
これは既定のプログラムに乗った行動ではないし、撤回せずにバットマンをやり続けているし、きっとバットマンに退屈はないだろうから、ハイデガーの唱える「決断」なのではないだろうか。こうなってくると退屈から逃れる方法は「バットマンになる」程度のことをやらないといけないわけであり、とても難しい。
というわけで、國分浩一郎氏はハイデガーが唱える「決断」には否定的な見解を持っているのだと思う。これは私の見解である。
 
 
▼「分かること」と「楽しむことを訓練すること」
 
では、どうやって退屈と付き合っていけばいいのだろうか。具体的な解決策というよりは「分かること」が大事であるとしている。「なんとなく退屈だ」と感じたくないかもしれないが、そういうふうに感じるには理由があることを「分かること」が大事だそうです。
 
何も分からずにただ退屈と感じているのはよくない。あとは準備して楽しむこと。ただ産業から与えられた観念消費サービスを受け取るのではなく、それらを準備して楽しむこと。例えば、いきなり抽象的な絵画を見ても分からないが、教養があれば楽しめます。訓練をすれば、日常的な娯楽も享受のレベルが上がって、楽しくなっていきます。
 
ハイデガーは楽しくないパーティを例にだして、退屈を論じていた。ここだけの話だが個人的にハイデガーはきっと陰キャなのでパーティを楽しめないのだろうと思っている。
『暇と退屈の倫理学』の結論をまとめます。私たちが「なんとなく退屈だ」であることを避けていることを理解し、新しいものの見方を会得すること。またハイデガーのようにパーティを退屈するでなく、楽しむことを訓練してもっと楽しめばいいじゃないかということである。
 
 
▼おわりに
 
昨今の新型肺炎事情で外出自粛していると退屈に思う機会も増えていると思います。家でできる遊びについてもただ観念消費するのではなくて、基礎知識を入れてから楽しむ。映画、ゲーム、料理だって、勉強してやれば楽しみ方も増えるはずだ。退屈であることを認知して、できる範囲のことで十分に楽しめるように訓練して毎日を過ごせばいいんじゃないだろうか。
 
http://www.ohtabooks.com/publish/2015/03/07000000.html

『うたかたの日々』(ヴィアン)

『うたかたの日々』(ヴィアン)
 
1940年代のフランス小説であり、ファンタジーな世界観が特徴的だ。「ニキビよ消えろ」と願えば消える、クロエという恋人とデートする日は雲が二人の前にやってきてパッとはじけてシナモンシュガーの香りが残ったりする。そこまで聞くとなんだか楽しいような気がするが、クロエと結婚して楽しい日々を過ごすというシーンが半分を待たずにして終わる。
 
残り半分で何があるかといえば、ジェットコースターな転落人生が来るだけだ。クロエは病気を発症し、私財も尽き、どん底のような人生がやってくる。殺人歯車が登場したり、だんだん狭くなっていく部屋に押しつぶされそうになったり酷いものだ。ダークファンタジーになる一方で、どんどん現実的になっていく。借金の取り立てがきたり、葬式をあげる費用でもめたり。まるで夢から覚めたときの感覚のようだ。
 
これはつまり恋愛の楽しい盲目期間が終わったことを意味しているのだろう。主人公のみた心象風景は実は何の色彩もないつまらない世界だった。筆者のボリス・ヴィアンは39歳のときに心臓発作で亡くなっている。もともと心臓に病気があって、あるとき自分は長く生きられないと悟ったそうだ。ヴィアンの見る風景もそのときかわったはずだ。
時間は無限だと思っていたとき、死を意識して時間が限りあるものだと知ったとき。今までの何気ない日常が急に大切なものに思えたとき、見える風景はどう変わったのか。現実やときの流れは蕩々と過ぎていくか、それをどう見るかは当人次第なのだ。
 
本作は何度も映画化されているが、なぜか2001年には日本版として映画化されている。ちなみにクロエはともさかりえである。
 
https://www.kotensinyaku.jp/books/book132/
https://movies.yahoo.co.jp/movie/234877/

『フォーカス・リーティング』(寺田昌嗣)

『フォーカス・リーティング』(寺田昌嗣)

 

素早く本を読んで必要な知識を入れたい人はいますか。そういう人は『フォーカス・リーディング』という本に書いてあることが参考になるかもしれません。

 

◾️読書には3種類ある

 

まず速読する前に共有したい前提事項があります。それは「読書は自己投資のためにやる」ということです。

だから娯楽としての読書は今回対象外です。さあ前提を共有したうえで次に進みますが、読書には3種類あるので紹介します。

 

1:to have 知を入れるための読書 (学術書

2:to do 指針を入れる読書 (ビジネス書)

3:to be 疑似体験の読書 (小説)

 

あなたが速読したい本は上記のどれに当てはまるか、考えましょう。

1は学術書、2はビジネス書、3は小説だ。どの種類をどのように読むかが重要になり、フォーカスする目標を見定めること、それがフォーカス・リーディングという速読法なのだ。何も考えずに読書するのではなく「この本から何を得たいのか」という目的をはっきりさせるってことですね。

 

話題の新刊や目を引くタイトルの新書は数多くありますが、目的意識なく読んでいてはどこが大事か分からないと筆者は述べています。パラパラ読んで、たまたま目にとまる知識や指針があればいいが、その偶然に頼るのは非効率なのです。つまり「その本から何を得たいのか」という目的が必要なのです。

 

◾️速読するためには知のデータベースが大事

 

読みやすい本もあれば、読みにくい本もある。読みにくい本は全然読めないっていう人もいると思います。でもどんな本でもスイスイ読める人がいる。その違いはなんなのか。簡単にいえば「その本の内容を読まなくてもほとんど知っていたから」です。おいおい、何を言ってるんだ。読まなくても知ってるって意味分からないよ、そう言いたくなる気持ちはよーく分かります。

 

読書中に「理解できない表現や知識にぶつかること」ってありますよね。どうしてそんなことが起こるか考えたことがありますか。それは「知のデータベースがスカスカだから」です。基礎読書量が足りないから、そういうことが起こるんです。

速読の達人になれば、500ページの本でも5分ぐらいで読めるらしいです。そういう人は基礎読書量が多くて、知のデータベースが膨大なのです。だから書いている内容がすべて理解できていて、分からない単語にぶつかることもないし、自分にとって必要ない箇所は読み飛ばすことができるし、必要なところだけを読めるわけです。

 

でもこれは小説には向かない読書法です。もちろん読めないことはないんですが、今自分がほしい情報だけを手に入れる読書法だと、小説のレトリックを味わえないし、深く考えることができなくなる懸念があります。

 

◾️ライフプランを考えてから本を手に取ろう!

 

おさらいしましょう。フォーカスすべきものを見つけるために、まずは自分の目的を決める必要があります。

自分の目的を決めるためには、ライフプランやキャリアプランを決める必要がある。つまり一番最初に自分についてよく考えるプロセスが必要なんですね。

 

無作為に気になる本を読む活字中毒のような人、なんか本を読みたいけど何を読んでいいか分からない人、早く本を読めるようになりたい人、いろいろいると思います。まずはライフプランとかキャリアプランを考えてから、本を選んでみましょう。

効率よく情報収集するためにフォーカス・リーディングという手法があるので、気になったら読んでみてください。

とはいっても基礎読書量が少ない人だと速読は無理なので、ある程度の読書量を詰んでからになりますのでご注意を。

フォーカス・リーティングってググると速読教室の講座がたくさん出てきます。

 

私は半日のお試し講座を受けたことありますが、なかなかキャラの濃い先生でした。

 

【家で映画 vol.3】『動くな、死ね、蘇れ!』

『動くな、死ね、蘇れ!』(ソビエト連邦/1989)

 

1989年に旧ソビエト連邦が制作した映画であり、1990年にはカンヌ国際映画祭カメラ・ドールを受賞している。暗そうな映画だが、予想裏切らず思いっきり暗い。(観る人は覚悟して観よう)

 

第二次大戦後、スーリャンという炭鉱町が舞台。街は収容所地帯として存在し、混沌としている。主人公は12歳の少年ワレリカは悪童であり、ロクでもないことしかしない。だが、それ以上に大人たちが狂っている。見終わってから気づいたが、まともな大人は1人もいない。そんな大人たちが社会を作っていて、そこで生きる子供が主人公なのだ。

 

繰り返すがワレリカはロクなことをしない。でも子供は悪戯をするし、その悪戯で社会に子供の意見を主張したいのだと思う。「こんな世界おかしい」と。

 

ワレリカは見ていてムカつくが、狂った社会でいい子になんてしていられない。世界は今にも壊れそうな微妙なバランスで成り立っている。それならこんな世界壊れてしまえばいい、でも自分はかわいい、痛い目にあいたくない。破滅的になっても、そこになりきれないのはワレリカに寄り添うガーリヤという少女がいるから。映画紹介でガーリヤは守護天使と評されているが、その通り彼女はワレリカの救いとなって存在する。

2人はともに12歳。淡い恋心が芽生え始めるが、腐った世界では恋心を語る気にもなれない。日本兵から聞いた歌に乗せるだけ、それがワレリカの今できる精一杯の表現だ。

 

エンターテインメント性はないので面白くない。ただこんな映画見たい日もある。少し前の腐った社会に生きた子供たちの疑似体験することは”たまには”悪くないんじゃないでしょうか。

 

(採点:★★★★★★★☆☆☆)

 

https://eiga.com/movie/42624/

満員電車、飲み会、「カバンの中身は何ですか?」的動画…

COVID-19蔓延前の日常を愛しいと思えたときもあったが、徐々に感覚が変化して今ではとてもダサいと感じはじめている。

満員電車は言わずもがなダサい。正直、通勤は運動にもなっているし、一人の時間なわけだし、ダサいと思わない。戻ってきてほしいと思うこともある。だが満員電車、お前はダメだ。元々前から東京都では時差ビズとか推奨して、満員電車の緩和を推進していたが、大きく変わることはなかった。テレワークに移行した企業も多いので、そもそも電車に乗らない。結果的に満員電車は緩和されているが、緊急事態宣言が解除されたら満員電車が戻りそうで嫌だ。

飲み会も好きだったけど結果的に必要のない飲み会ってダサいなと思うようになっている。久しぶりに会う人、話したい人がいるみたいな飲み会はいいですけど、なんとなく飲む?みたいなアルコールに依存しているような飲み会はダサいなって思いますね。

YouTubeでよくある「カバンの中身は何ですか?」的な動画について、これもなんかもうダサい。例えばコンパクトなモバイルバッテリーとかをポシェットに詰めて、これでmacbookを持って、スタバで何か作業をする…

コロナ前まではクールに思えたけど、そんなもの持ち歩いてわざわざスタバまで行くんですか?マジか?って思う。出かける気持ちも分かる、家で作業する場所がないからだ。でもテレワークをして家の作業場所を整備したら、わざわざスタバに行く必要はもうないなって思う。そしたら必然的にモバイルバッテリーとかのMacBookに付随するガジェットも不要。「カバンの中身は何ですか?」的動画も見る気がしない。

…というわけで個人的にダサいと思うようになったコロナ前の日常を挙げてみた。じゃあコロナ時代はどんなことがダサくない日常して生まれてくるのか。

それは多分クールではなく、やがて生活感あふれる日常に落とし込まれていくんじゃないかと思っている。