『暇と退屈の倫理学』(國分 功一郎)

『暇と退屈の倫理学』(國分 功一郎)
 
「なんとなく退屈だと」という心の声は誰しも聞いたことがあるだろう。『暇と退屈の倫理学』によると、この心の声は人間にとって耐え難いことであると書かれている。
 
 
▼消費と浪費は異なる
 
現代において「消費」とはモノを受け取るというよりも「観念を消費すること」だそうです。ここでいう観念とは「生きがい」や「忙しさ」であり、私たちは労働においても余暇においてもその観念を消費しているのだという。※ちなみに浪費は必要以上にモノを受け取る事、つまり贅沢である。
 
言いかえれば、広告は「個性的であること」を提示していて、私たちは個性的であろうとする。産業は次々に新しい観念をサービスとして提供し、私たちはそれを消費している。そうなってくると余暇は労働に対する休息の時間ではなくなっている。つまり「俺は仕事に縛られていない」という観念を消費するための時間になってしまっているのだ。労働がある限り、余暇は存在し、そのたびに観念を消費していくらしい。
 
 
▼産業サービスを拒否すると退屈になる
 
産業の提供する観念消費サービスを拒否した場合、どうなってしまうのか。冒頭に戻りますが「なんとなく退屈だと」という心の声が聞こえてきてしまうのだ。現代の私たちは「なんとなく退屈だ」という心の声を聞きたくない。何をしてもいいのに、何もすることがないという耐え難い状態になってしまうのだという。
 
退屈状態から逃れるために「日々の労働の奴隷」になる人もいる。つまり、常に忙しい状態に自分を置いておき「なんとなく退屈だ」という心の声を聞かないようにする。奴隷という言葉にはネガティブな響きがあるが、「なんとなく退屈だ」という心の声を聞くよりはずっとマシらしいのです。
 
 
ハイデガーの唱える退屈の解決法は「決断」
 
本書にはハイデガーの考える退屈に対する結論と提案をまとめてみる。(p294)
 
(1) 人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだからだ。
(2) 人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。
 
決断することで退屈から逃れられるとハイデガーは述べているらしい。ちなみに本書では「決断」について、「ぐずぐずいってないてシャキっとしなさい」という喝を入れるようなことだと超簡単に書かれている。ところが筆者はキルケゴールの「決断の瞬間は一つの狂気」という言葉を引き合いに出して、ハイデガーの論に異を唱えている。決断とは周囲から隔絶した状況に自分の身をおいて何を決めてやることだ。そんな狂気の行動をハイデガーが退屈論の結論に持ってくるのは変だと言っているのだ。
 
ちょっとよく分からないので、國分氏本人に「決断」とは具体的に何かと聞いてみたことがある。「日常ではなかなか決断することはない」「既定のプログラムに乗った行動じゃないけど、一度決めたら撤回せずにやること」だという回答が返ってきた。日常生活で決断することはないので、分かりやすい例が出せないということと、時間の都合により、ここで質問は終わった。
 
全然腑に落ちない私はそれから考えた。そして結論がでた。おそらく「決断」とはいわゆるバットマン的な行為ではないだろうか。バットマンこと、ブルース・ウェインゴッサムシティを代表する大企業ウェイン・エンタープライズ筆頭株主である。普通に生活していればセレブなわけだが、彼は犯罪撲滅という目的がある。夜になればコウモリ男のコスプレをして、秘密基地にある武装した車やバイクに乗って犯罪者を私刑に処すわけである。
 
これは既定のプログラムに乗った行動ではないし、撤回せずにバットマンをやり続けているし、きっとバットマンに退屈はないだろうから、ハイデガーの唱える「決断」なのではないだろうか。こうなってくると退屈から逃れる方法は「バットマンになる」程度のことをやらないといけないわけであり、とても難しい。
というわけで、國分浩一郎氏はハイデガーが唱える「決断」には否定的な見解を持っているのだと思う。これは私の見解である。
 
 
▼「分かること」と「楽しむことを訓練すること」
 
では、どうやって退屈と付き合っていけばいいのだろうか。具体的な解決策というよりは「分かること」が大事であるとしている。「なんとなく退屈だ」と感じたくないかもしれないが、そういうふうに感じるには理由があることを「分かること」が大事だそうです。
 
何も分からずにただ退屈と感じているのはよくない。あとは準備して楽しむこと。ただ産業から与えられた観念消費サービスを受け取るのではなく、それらを準備して楽しむこと。例えば、いきなり抽象的な絵画を見ても分からないが、教養があれば楽しめます。訓練をすれば、日常的な娯楽も享受のレベルが上がって、楽しくなっていきます。
 
ハイデガーは楽しくないパーティを例にだして、退屈を論じていた。ここだけの話だが個人的にハイデガーはきっと陰キャなのでパーティを楽しめないのだろうと思っている。
『暇と退屈の倫理学』の結論をまとめます。私たちが「なんとなく退屈だ」であることを避けていることを理解し、新しいものの見方を会得すること。またハイデガーのようにパーティを退屈するでなく、楽しむことを訓練してもっと楽しめばいいじゃないかということである。
 
 
▼おわりに
 
昨今の新型肺炎事情で外出自粛していると退屈に思う機会も増えていると思います。家でできる遊びについてもただ観念消費するのではなくて、基礎知識を入れてから楽しむ。映画、ゲーム、料理だって、勉強してやれば楽しみ方も増えるはずだ。退屈であることを認知して、できる範囲のことで十分に楽しめるように訓練して毎日を過ごせばいいんじゃないだろうか。
 
http://www.ohtabooks.com/publish/2015/03/07000000.html