労働者失格

 はしがき
 
すべては考え方次第、ではないかと強く思ふようにになりました。
抽象的なことでよく分からないと思ふので、順を追つてゆきます。
勉強していても、要領が良くても、明るくても、その人の考え方がすべての根源なので、何かおかしいと思つたらそこを見つめ直すのが良いと思ふのです。おそらく本人も気づいていない無意識化された意識による、すべての場面に於ける選択がもたらす結果は、長い目で見ると大きな影響になつてしまうのです。
 
 
 第一の手記
 
いわゆるシステム開発といわれる業務において、話をしてみます。
経験された方も多いかと思ふのですが、どうしてこんなものが出来上がった、という成果物が生まれることがあります。その理由を誰に聞いても、とうと分かりませぬ、と答えが返ってくるのです。それはまるで、多摩川で情死した女の髪のように、絡み合ってしまった企業間の決め事や人間関係を解くことは相当に難儀な話だと言わんばかりでした。
一方で、愚鈍な成果物が出来上がった経緯をとうとうと説明してくれる人もいます。でもそれはただの経緯であって、まるでインターネットの匿名の人物のように当事者意識は感じられないのです。
 
このままではまずい、何とかしようという思いがあって働けば、それに協力してくれる人も現れ、なんとかなるものです。でもそれはあくまで、なんとかなる、程度のもので、全体の成果物が高品質になるかとはいえば、そうではないのが悲しいところです。
「がんばつた、がんばつた」
互いの労を労いながら交わす杯と、緊張した肉体を女神のように優しく包み込む麦酒に救われる日々を過ごしていたこともありますが、それはしようがないと思つていました。世界の綺麗事というカーテンに覆われた現代のプロレタリア文学として、いつか綴つてやろうと心の奥で思いながら眠りについていました。
 
昭和に生まれ、平成を経て、令和の時代を生きてゐるのですが、だから何だ、と思ついていました。
元号が変わったところで、とうとうと流れる時間に日本国が勝手に楔を刺しているだけで、何が変わるのでしょうか。でも、ここ半年ほどにおいて、私の中にびっくりするほど古い価値観があることに気づくことがあつたのです。
 
 
 第二の手記
 
「働き方カイカク、カイカク」
まるで壊れたラジオのように繰り返す、いわゆる管理職として従事する諸兄がおります。とても忙しいようで、デスクに座ってゐても、すぐに誰かがやってきて、別の場所へ連れてゆかれ、戻ってくるのは頃合いは日が暮れた頃です。
しつかりとスコープを決めて仕事をしているような建前に見えても、実はそれ以外の仕事もたくさん存在していることはよくある話です。
 
「ダレがやる、ダレ」
生贄を捧げる人間の古い風習の名残は令和になっても残っているようで、稼働時間的には余裕があろうがなかろうが、そこに生贄として捧げられるのです。でもそれは普通のことだと私は思つていました。その生贄になつたこともありますが、生贄として指名されそうなら、自分からやるように仕向けた方がまだましなのです。後々の損得勘定も見据えて、複雑な嘲笑を心に浮かべながら、生贄として過ごしたこともあります。
いろいろと要領よくこなせる場合もあれば、とても難儀なことが判明して、さらに邪悪なパンドラの匣を開けたような状況になってしまうこともありました。でも困つた人がいて、求められているなら助けるのが良いと思つていました。
 
でも昨今の潮流とも言える仕事方法から考えると、それは古すぎると思ふのです。
ある一定の品質は維持しつつも、素早く対応し、そこで捻出できた時間で、突如発生しうる仕事や、後回しになっている課題処理等を対応しなければいくことが昨今の潮流でしょう。もちろん、これは一般論であり、個々の事情に応じた対策が必要なのですが、大きくずれていないと思ひます。
 
私の場合でいふと、時間内に処理できないという仕事量というわけではないのですが、当時の担当者の頭の中でしか整理されていないような、とても想像がつかない罠がたくさん仕掛けられてゐる状況だつたのです。後から発覚してからといふもの、私めはそれに一つずつ、ひっかかってしまうのです。藪から蛇どころの騒ぎではなくて、実は八岐大蛇が隠れていて、一本、一本、その醜悪な首をひょっこりと顔を出すのです。
正常に動いているように見えたシステムは、実は穴だらけで、その穴が折り重なった偶然によって動いていて、整理すればするほど、仕事が見つかるのです。
夕暮れに新しい穴を見つけて、気持ちが沈むこともあれば、夜更けに新しい穴を見つけて、ちょっと覗いてみたら戻って来れなくなることもありました。
 
いわゆる売上的なことを考えると、維持保守・改善的な提案に工数をかけることを渋る顧客が多いのでしょう。それよりはもっと目に見える実益的な課題をこなして、その合間にやってくれというのが本音だらうと思ひます。でもそれでは前時代的な仕事のやり方は変えられず、「働き方カイカク、カイカク」という言葉だけが宙に浮いてしまい、夜更の酒場で管を巻いて過ごすことになるのです。
 
過渡期といふ言葉は、振り返ると毎年使っているような気がして、私はまったく好きではないのですが、きっと「働き方カイカク」といふもの過渡期なんでしょう。
でも、目の前の実務が多いなかで、業務効率の改善に時間を割けるかといえば、専門にアサインされている担当者でもない限り、難しいものがあります。それに興味関心があって、やる気がある人材であれば、もくもくと隙間時間に努力するでしょうが、いわゆる他企業間の寄せ集めの人材たちが、それをやるでしょうか。そもそも興味のない業務に会社の事情で勤務しているのかもしれませんし、スコープ外の仕事に手を出して残業したら上司から怒られるのかもしれません。一様な状況でないことは前提として考えると、期待するのは難しいのです。
 
 
 第三の手記
 
話を冒頭に戻しますが、すべては考え方、なのではないでしょうか。
まずは自分がやりたい仕事をするべきです。私も少し前まで前時代的な価値観に縛られていましたため、やりたい仕事をやるということにいまいち理解を示せていませんでした。それよりは求められている仕事をこなして、雇用者に貢献することが美徳と思つていました。
やりたい仕事をやって、時間内に仕事を終わらせる、その後自己研鑽の勉強をして、やりたい仕事の品質を上げる努力をする。そもそも「働き方カイカク」をしたいのであれば、労働者の時間だけを見ずに、仕事を早く終わらせて、業務改善する時間を捻出するべきなのです。よくをいえば専任の担当者がいるべきでしょう。
そんなのは分かっているよ、でも企業間の決め事や人間関係が複雑でできないんだよ、そういふ人もいるでしょう。面倒でできない気持ちはよく分かるのです。
 
大きな外圧によって「働き方カイカク」を押し付けられて、戸惑っているの労働者が多く、不平不満はよく耳に入ります。でも世界は一つずく良くなっているという話も聞きます。労働時間が多いからこそ、政府が「働き方カイカク」というものを労働者に押し付けてゐるように見えるのです。
建前的な改善でなく、本当の意味で中身が変わるのは相応の時間がかかります。労働者全体がその変化を享受できるのはきっと十年ぐらい先の話ではないでしょうか。
 
でも個人レベルなら変えられるはずだと思ふのです。面倒なことを押し付けられて、愚痴とヘイトをばら撒くよりも、やりたい仕事を見つけて、それに前向きに取り組むサイクルを作るところから始めてみるのが良いのではないでしょうか。やりたい仕事が分からないなら、心の声が聞こえるまで瞑想でもすると良いのです。
なんとか正常に動いているように見えたシステムが実は穴だらけだったように、正常だと思っていた自分自身の中にも心の穴があって、目を背けているのかもしれないと思ふのです。
労働者一人一人がやりたい仕事を見つけて前向きに取り組むサイクルができれば、押し付けられてゐるように見えた「働き方カイカク」という言葉が地に足をつけた言葉になり、カイカクではなくて、普段の日常に溶け込んでいくはずです。それができた頃には、きっとまた何か新しい「〇〇カイカク」という宙に浮かんだ言葉が出てくるだらう、それはそれできつと正しいことに違いないと思ふのです。(了)