【家で映画 vol.2】『THX 1138』

『THX 1138』(アメリカ/1971)

 

ジョージ・ルーカス長編映画デビュー作で、人間がコンピュータに完全管理されているディストピア映画。真っ白な部屋とか、ロボット警官とか、AIの神とかは部分的に面白いものはあるが、エンタメ性はなく退屈である。後のスターウォーズのためにはこういう道も通らないといけないんだなあとルーカスの歴史を感じることができる、といえば聞こえはいいが、退屈には変わりない。

 

(面白さ:★★★☆☆☆☆☆☆☆)

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タクシードライバー』(アメリカ/1976)

 

不眠症に悩まされている、社交性ゼロではないけどズレている。タクシードライバーとして働いているから、社会と接点はあるけど本質的には孤独のため、独りよがりの思想が誰からも是正されずに狂気の道へと続いていく。とても大きな理想を掲げたけど、ちょっとできなかったから、理想を下げてみたら着地点としてはそんなに悪くなかった、周りの人にはそこしか見えてないから、それでいいか。という感じで彼は満たされたのだろうか。周りにいてほしくない奴だが、ほんの少し共感できる部分もあるので、こうはなりたくないと思う。

 

(面白さ:★★★★★★☆☆☆☆)

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『キング・オブ・コメディ』(アメリカ/1982)

 

タクシードライバーより、こっちの主人公の方が日常に溶け込んでいるから、周りにいそうで嫌だ。妄想と現実が混じっていて、主人公も観ている側もどれが本当か分からない。それはいいとして、最後の場面。タクシードライバーもそうだが、これでいいのか。めっちゃくちゃ課金して強くなるゲームがあるとして、それで強くなって嬉しいのかと思う人間なのだが、本人が幸福ならそれでいいんじゃないのかと最近は思うようになってきた。きっと主人公も同じなんじゃないか。

 

(面白さ:★★★★★★☆☆☆☆)

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「この飛沫がいいんだよ」というクールな行為

二ヶ月ぶりに散髪をした。今までは電車移動で20分ほどかかる床屋に行っていたが、近所の床屋に行った。その床屋は換気と消毒とスタッフの体温検査、マスク着用、最小人数の体制、顔剃りはしない等の三密対策をしていた。

顔剃りをしてもらえないのは残念だが、マッサージをしてもらったり、雑談しながら散髪してもらえるのは楽しかった、というか気持ちが良かった。それは親しい人とのzoom飲み会よりも良い体験で、身体性を伴うコミュニケーションの強さを改めて実感した。

散髪してもらっている時はマスクをしていないので雑談したら、僕の飛沫が飛ぶなあと思ったけど、そこまで気にしないことにした。そう考えると今までどれだけの飛沫を浴びていたのだろうか。

少し前のテレビ番組では、雑談時やくしゃみをしたときをハイスピードカメラで撮影した映像をしょっちゅう流していた。コロナ前にも同じ映像は何度も見ていたが気にしていなかった。それは飛沫を浴びるようなコミュニケーションが楽しかったからだ。

未来を予想すると、(あまりこうなってほしくはないが)オンライン系のイベントは安価で体験できるようになっていくので、お金のない人はそれに参加する。逆にお金のある人は三密対策を十分に取られた少人数での"高価な"リアルイベントに参加することができる。きっとそこにはオンラインのオーディエンスがたくさんいる。

リアルが希少な体験になり、オンラインが日常的な行為になっていくとどうなるだろうか。例えば、すでに日常になってしまったものとして、音楽のストリーミングサービスがある。今まではCDを買ったり、それをMDに録音して楽しむ行為を経て、スマホに音楽をダウンロードして聞いていたが、今は月額制のストリーミングサービスで楽しんでいる。
そこであえて、音楽を聞くときにレコードプレイヤーを使ってみたり、カセットテープで聴くような行為は一周回ってクールに思う。「このノイズがいいんだよ〜」とか言ったりして。

つまりどういうことかというと、オンラインイベントは安価で日常的な行為になっていき、リアルイベントは高価で非日常なクールな行為になる。リアルイベントに出向く人は「この飛沫がいいんだよ〜」とか言ったりするのだろう。

zoom飲み会はもう飽きた

ウィルスによって社会変革が促されている。リモートワークとかソーシャルディスタンスとかあるけど、個人として何か変えようと思うことはあるか。僕は「発信」だなと思う。一ヶ月前は「今までの日常が戻ってほしい」と思っていました。飛沫が顔面に直撃するような三密空間でイベントや飲み会がしたかった。だが今は執着していない。

ステイホームや自粛が声高に謳われる昨今の東京には、寂しい思いを持つ人がたくさんいると思う。実際、オンライン系のイベントのお誘いをすると喜んでくれる人が多い。

去年の今頃と比較してコミュニケーション量がどれぐらい減っているか考えてみると(数値化する基準は度外視しているが)私は8割減だ。8割減の日常が影響を及ぼさないわけがなく、メンタル・フィジカルともに落ち込んでいるのだ。

寂しさを埋める手段として、zoom飲み会をやっていたが、私はもう飽きてきた。
ただ、zoom飲み会をやるごとに初参加の人がいて、その人は初めてだから楽しそうに見える。楽しそうな人がいるならそれでいいかなと思っていたけど、その人もやがて飽きてくる。全員飽きたら、今のやり方のzoom飲み会はオワコンである。(革新的に楽しくなるやり方が生まれればいいけど)

落合陽一氏がしきりに「デジタルヒューマン」と言っている。彼が「zoom飲み会やオンラインイベントがつまらないのは身体性がないからだ」という趣旨のことを言っているが、ようやく体感してきている。
とはいえすぐに「デジタルヒューマン」にはなれないし、一般的な行為に落とし込まれるのはもっと先だ。そしたら今できることは「発信」によるコミュニケーションにより生まれる何かに期待することしかないと思う。

2020年の発信行為は同時に記録行為でもある。webサイトやデバイスに発信履歴が残る。今この先が見えない時代に発信を続けていると何かが生まれるかもしれない。それが何かは知らないが、何もしないよりは良いはずだという、おぼろげな確信がある。
発信による足跡を記録して、その足跡を受け取ったり、眺めてくれる人たちとともに、欠損したコミュニケーションを埋めていきたい。

こうやって長々と書いたが、結局何が言いたいのだろうか。そんなまとめはもはや不要だと割り切っている。思いや考えはまとまってなくても発信していこう。そういうふうに考えているので、発信量を増やしていこうかなと思う。だから毎日日記は更新しようかな。

『ペスト』(カミュ)

『ペスト』(カミュ

 

 コロナ前の世界に作られたものが古めかしく感じる。特に昨年末や年明け直後に未来予測したような本は読む気にならないから連休にすべてメルカリで始末した。

 コロナ後の世界について書かれた書籍はまだまだ少なく、識者たちは電波を介してコロナ後の世界について発信している。(何にだって言えることだが、)その発信内容は語り手の立ち位置や思想によって切り取られた世界であり、また受け手自身ですらも自分のフィルターを通して世界を切り取ってしまうわけである。それは個人が見る心の風景が真実ということになってしまうが、ぴったりの小説がカミュの小説『ペスト』だと思う。

 

 不条理な死をもたらす疫病が蔓延する北アルジェリアの港町オランを舞台に、様々な思想を持つ登場人物たちの群像劇が『ペスト』という小説だ。登場人物たちはそれぞれ信じるものが違うので、自分の正義を振りかざして言い争いが起きる。突拍子もない危険思想はなく、どの言い分も理解することができるので、読み手は心がざわつく。

 医療現場の前線で戦う医師リウーは、ペストとの戦いのなかで一番大事なものは「誠実さ」だと語り、状況を見極めて自分の職務を果たしていく決意を述べる。疫病による死が蔓延し、医師として果てしのない敗北が続く、不条理と絶望の町オランで、正気を保つことは難しく、どこか使命感だけで生きているようにも見える。

 

 一番人間臭いのがランベールという登場人物だと思う。たぶん僕も彼と似たような行動を取るだろう。個人と全体の幸福を考えた場合、ランベールは個人の幸福を選択することが正しいというのだが、リウーとの対話で考えを改めていくのだが正しいかどうかは分からない。全体を通して誰が悪いとか良いとか決めつけれるように描かれておらず、淡々と事実だけが綴られていく。

 やがてペストは終息し、町では祝祭が行われる。解放された多くの人間は狂乱にふけるが、リウーやランベールたちは素直に受け入れることができない。彼らには癒しの時間が必要であると同時に、彼ら自身がペストによって変わってしまったのだ。

 

 2020/5/4 緊急事態宣言の延長が発表されたとき、安倍首相は「コロナ時代の新しい日常を作っていかなければならない」と言った。全世界で感染症が流行している昨今、世間は過去の日常を求めているように見えるが、本質的には新しい日常を作る作業が求められていくと思う。個人の心の風景が真実だとしても、新しい日常にむけてチューニングしていく作業は怠ってはならないのだろう。

zoom飲み会はすぐ飽きられるのか?

先週初めてオンライン飲み会なるものに参加した。最初はどうなるかと思ったが、案外楽しかった。

そのほかオンラインでの勉強会やコーチングもやった。ツールはzoomだけでなく、RemoとかTeamsとかいろいろ使っている。

オンライン飲み会も楽しいじゃないかと思っていたところ、NewsPicksの番組で落合氏が「zoom飲み会なんてすぐ飽きる」と言っていて、その場にいる人もうなづいていた。

https://youtu.be/SZe_K0Pnok4

オンライン飲み会を始めたばかりなのに、いきなり「すぐ飽きる」と言われて面食らってしまった。でも、きっとそうなんだろう。

理由は身体性を伴わないからとか。
今後、身体性を伴うイベントはすごく高価値なものとなり、参加できる人は限られていく。そうじゃない人はどうするかというと、身体性を伴わないオンラインイベントで我慢するしかないと。

身体が無理なら物流でカバーするしかないのだが、それも微妙ではないかと。デリバリーでいくら高いものを注文しても、店の雰囲気はないし、冷めてたりするし、配達料はかかるしで、コストの割に価値が低い。

その番組の中で、オンラインとリアルが完全に分断された世界がこの先に待ってるんじゃないかとか言っていた。先を見てる人は先を見てるなあと思いました。

まあ確かに「オンライン飲み会はビフォアーコロナの日常に戻るまでの繋ぎ」と考えでやるなら良いのだが、もう戻らない日常であることが分かったら、確かに物足りないし、飽きるのかもしれない。

良くも悪くもアフターコロナ(withコロナ?)の世界が楽しみである。

外出できないから本を読もうと言うけれど

外出できないから、家で本を読もうという人がいる(少し前の私だ)。
だが問題がある。

昨年末や今年1月に買った本があるのだが、なんかもう古い気がする。2030年の世界! オリンピック後の日本! みたいな主旨の本が描いた未来は新型肺炎によって書き換えられてしまった。

皆様ご承知のように、この新型肺炎がいつまで続くは分からない。だからこの先の未来を語れるような本はまだ売っていない。少し前に買った、そういうジャンルの本はもう読んだって虚しいのである。

じゃあ何を読むかっていえば、普遍的な本か、感染症の本になる。

ここ5年ぐらい未来予測的なビジネス本が好きだった人間としては、ちょっと物足りないのである。

仲良い人の「言ってることは分かるけど」は困る

「言ってることは分かるけど」と思うことはよくある。
とある事象があって、仲の良い人が私見を述べたとする。

言ってることは真っ当だが、それに対するカウンターが行き過ぎていると思うことがある。そのカウンターに至るまでのプロセスも分かるし、当事者になるときっと同じことを思うのだろう。
でも当事者ではないので「行き過ぎ」と思ってしまう。

漫画『美味しんぼ』のなかで似たようなエピソードがあった。
関西の人が関東に転勤になったんだけど、食べ物が口に合わないから退職してやる!と激昂していて、山岡士郎がびっくり仰天するって場面があった。

これは行き過ぎですよね。食べ物が口に合わないのは分かる。
でもそれだけで退職しなくても、と思う。


よく知らない人なら「勝手にどうぞ」でいいんだけど、仲の良い人だとちょっと困りますね。
寄り添ってあげたいけれど、どうしたものかね。ちなみに『美味しんぼ』では確か、山岡士郎が関東にも美味しいものはあるんだぜ、と毎度同じく料理を食させて、丸く収まっていた。
美味しんぼの様式美なわけだが「退職したがっていた人は視野が広がったので考え方を改めた」のである。

仲良い人の「言ってることは分かるけど」は困る問題も、その人の視野の広さが一因になっていると思われる。でも料理のようにすぐに体験できるものばかりではないので、難しいものだよね。